最近、戦時中に同級生の吉満義彦氏と会って、ドストエフスキーにおける宗教感覚に関して意見交換をしたらしい、との情報を得ました。
しかし、そのときにカトリックの教義一般に関する議論があったかどうかは不明なのです。
「矢張り一元論なのだろうね……」との発言があったとのことでした。
これでは、ベルクソン、宣長、白鳥と論じて、自身の信仰のための見極めは、その余裕を持ちません。
つまり、自身の信仰に関する見極めを行う時間を犠牲にして、信仰の原点である精神活動、直観、直覚の意味の解明を行ったのではないか、と思うのです。