みさかくんの日記

はてな市民の日常

マリオス・パパドプーロス

セザール・フランク集です。1991年メリディアン・レーベル。フーガの形式の持つ意味が感じられませんので、むしろ演奏の勢いは、奏者の任意の設定に依存するのでしょう。「前奏曲、コラールとフーガ」はおおむね思弁的で、ただフーガが派手になりました。急転直下おわります。

ロザリン・テューレックによるメンデルスゾーン、シューベルト

無言歌集より、と楽興の時です。

 

穏当に、しかし内省にあたる推移が音楽の世界にあることを強調しています。もともとそれぞれの曲がそうであるのに、それを演奏家が説き直しています。

近代の超克

実践のモデルを一つ選ぶとしたら、だれが好適な例となりましょうか。

 

バンクシイでしょうね。むろんわが国の歴史にあっては、「近代」がそれぞれの分野でいかなるものであるのか、という現状把握が問題となります。文芸、音楽、宗教、哲学、歴史学、科学などなど各種の領域の総体をとらえることが難しいのです。

 

そこで、この際、ハアトとねずみとモナ=リザがサルと風船によって飾り付けられていたら、これが、日本の歴史そのものとなり、いずれ、シュレッダーで粉砕されます。

 

嗚呼。

 

 

棋戦譜

棋譜は、反転させることができます。しかし、これは本物の反転ではありません。このことは、楽譜にある音符を逆行するときにも同じことが言えます。時代は変わっていて、録音をさかさまにたどることが可能ですが、音の列は音符の順に楽譜通りに反転させても、ニセモノの反転にしかなりません。

アンドレイ・タルコフスキーは『鏡』を創作するときに、このことに気が付いていたはずです。そして、より直接の認識は、セルゲイ・エイゼンシュテインにおいて得られていたはずです。

しかし、ただひとり気を吐いた人物がありました

支那の元素は一なり、日本の元素は二なり。」(福澤諭吉著『文明論之概略岩波文庫、p.36)

 

さいわいであった、と述べたのです。あとは、丸山眞男氏の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)をご参照願います。

戦争のための言い分

根本的に、世界に向かってうってでるための大義名分が必要です。

それは、例えば、古くは豊臣秀吉の考えたことにも通じるでしょう。

しかし、明治以降は、西洋のものの考え方にも通用する哲学でなければなりませんでした。

問題提起に対する回答は、安岡正篤氏の行動のなかにヒントを得ることが出来ます。氏は、朝鮮半島の人々、中国大陸の人々とも交流しました。東洋の原理が仁心の延長上にあるからには、このことが世界に適用可能な行動原理としての倫理となるに相違ないと考えたのです。

同時にこの倫理は、武人の倫理でもなければなりませんでした。王陽明の哲学にその根拠を見出し、実践を図りました。

あと、ここに欠落しているものは何であったでしょう。それは、近代の超克の方法でした。近代の在り方を超越しなくてはならないのです。この条件に関する考察には、いまだに回答が得られていません。